雨の音 25時

大好きな友達が結婚。

旦那さんのお仕事の関係で、半年後にイギリスに発つとのこと。

 

結婚の報告を聞いた時、嬉しい反面、寂しい気持ちになって、ひどく落ち込んだ。

頭は真っ白で、ガッチガチの表情じゃ「おめでとう」って言葉にも気持ちが籠らなくて、涙が出そうになるのを我慢した。

 

大学の友達とも、もう7年の付き合いだって。

25にもなると、やっぱりみんな大人になって、同棲したり、結婚したり、子供ができたり、どんどん遠いところへ行っちゃうような気がして、心がどんどんすり減るね。

 

大学の時にバカばっかやってたやつらも、一丁前に相手を見つけて、『これから』に向けて着々と進んでるんだから凄いよ。

 

結婚が良いことだとか悪いことだとか、それは人それぞれの感じ方とか考え方によるだろうけど、やっぱりそこに辿り着かないと「幸せ」ではないっていう考えが、なんとなくだけど確かにわたしの中にある。

生きてきた25年間のどこで刷り込まれたのか分からないけど、結局世間の目が気になるのかな。誰も気にしないのに、自分が一番気にするんだよね。ここまで人に必要とされないと、自分が欠陥商品みたいに思えてくるなぁ。

 

この間、3連休を明日に控えた金曜の夜の電車が、0時を過ぎてるにも関わらず通勤ラッシュかよってくらいに混んでいて、

身動きが取れないくらい人が詰め込まれて、酸素も薄くて、

「満員電車うけるんだけど!」とか言って友達と盛れるカメラで写真撮ってる女の人の髪の毛が鼻に当たって痒いし、50代くらいのサラリーマンの男の人は捕まるところも無いのにずっと手を上げて冤罪対策。右にも左にも自由に動けない。足の位置さえ変えられない。

 

そもそも他人とこんなに距離が近いっておかしくないか?

近付きたい人とも上手に距離が詰められないのに、なんで他人と密着しないといけないんだよ。

 

でももしあの時の電車に誰かと乗ってても、少し気まずい思いをしただろうな。

知らない人とくっついてる方が気持ちが楽だったりするんだろうな。

 

さて、話は変わるんだけど、自分が普段使っている言葉というのは、今までの経験の中で獲得しているものらしい。

 

親から、友達から、先生から、聴いてきた音楽から、読んできた本や漫画から、観てきたテレビ番組や映画から。

通ってきた経験が近ければ近いほど、気が合ったり話が合ったりするそうだ。

 

前に、面白いほど気が合う人に会ったことがあるけど、それはそういうことだったんだなって、最近やっと分かった。

趣味嗜好が似ているから経験が近いのか、経験が近いから趣味嗜好が似てるのか、どっちが先なのかそれはよく分からないけど、話をしてる時間がどうしようもなく楽しいから、恥ずかしい話、 “これは……運命?!!!” とかいう感情が浮かんできてしまって、それもまたどうしようもなかった。

まあその人もまた、この先の人生を共に歩いていく人と、『これから』に向けてしっかりと歩き出しているわけで。

あんなにも経験が近い、話も価値観も合う相手でさえ、所謂『運命の人』じゃなかったということだ。

 

つらつらと書いているこの文章も、どこかで得た経験から書いているんだ。もっともっと日本の文学に触れていたら、もっと高尚な文が書けたのかな。

 

アカシック/可愛い連中の理姫ちゃんとか、椎名林檎とか、どうしたらそんな歌詞が書けるんだろう。わたしが幾ら人生をやり直したって、同じものは出来上がらないだろうな。

出来上がったとしても、世に出すか出さないかはその人次第だ。まだ10代だった椎名林檎宇多田ヒカルが世に出たのも、才能を周りが放って置かなかったからだろうよ。

凄いやつはずっと凄い。ズバ抜けた才能っていうのはそういうもんなんだろうな。

 

でももし、そのまま才能が埋もれてしまっていたら、歌舞伎町の女王も正しい街もファーストラブも、誰の耳にも届かなかったと思うと、この偶然って凄いね。必然だった気もするけど。

 

人生を今の記憶のままやり直せたとして、あの失敗も、あの悔しさも味わわずに、成功する方へ、そうなって欲しかった未来の方へ正解を選択し続けられるとして、

そしたらわたしは今のわたしかな。

あの子とは友達になっていたかな。あいつのことは好きになっていたかな。同じ大学には入っていたかな。あの時の思い出は同じものとしてそこにあるかな。

 

これがやっぱりわたしの人生なのか?

しょっぱい思い出ばっかだけど、楽しいこともあるし、大好きな人たちも近くにいるし、まあまあ嫌いじゃない。まあもっと上手くできたらいいなあとは思うけど。

 

グッバイ

 

 

Pretender/Traveler -Official髭男dism