車酔い

先日、高校卒業振りに再会したN村に
「おびから人間性を学びたい」と言われた

わたしから?わたしからなにを学べるというのだろうか

なにそれ〜と返して普通に喋っていたが、N村はわたしのことを過大評価している、そうに違いないと思った

そもそもN村は高校2.3年で同じクラスで、何度か隣の席になり、わからない問題を質問し、ノートを貸してもらい、わたしが一方的にズケズケと彼の領域に踏み込んで感想を言って終わり、のような、なんとも言えない距離感であったのには間違いない
それでもわたしはN村が趣味に一途に没頭するかんじが父に似ていて、すごく好感度が高かったのだけど、N村がわたしを「いいヤツ」認定していたとは

「いいヤツ」とは果たして

わたしの中で「いいヤツ」といえば、真っ先に思い浮かぶのがK林 こいつは近年稀に見る「いいヤツ」の代表格である

まず、こいつは、もうなんだか空気感が良い 空気感が良いのに加えて、聞き上手、愚痴は言うけど悪口を言わない よく笑う、よく考える それでいて楽観的で、なんだかとても好きなのだが

なんだか、という言葉を連呼してしまうほど、「いいヤツ」は感覚的な問題で、自分にとってどのような存在であるかというのが重要なのではないか、と

あと、細かいことを言うと、「いいヤツ」と「いい子」は違う 全くの別物であるとわたしはおもうのだが、これも感覚的な問題で、性別云々の話ではない

どちらかと言うと、「いい子」のほうが量産型である
素直に言うことを聞く後輩は「いい子」
お手伝いを率先してやる子も「いい子」
飲み会の幹事やらを率先してやってくれる子も「いい子」

なんていうか、「いい子」は作れるんだ、そうだ、自分で作れるんだ
「いいヤツ」は、自分じゃなれない 相手に認めてもらってやっとなれる特権的な肩書きなのかもしれない

話は最初に戻る
N村に「いいヤツ」認定をされていた話

助手席で高校時代の話をする
わたしが、同じクラスだった男の子を良く思っていなかったという話
N村は「イメージ変わったわ」と言ったのだった

「いいヤツ」からの転落
見事な転落人生、こんなところに潜んでいたとは 嗚呼、儚い 言葉と内容と人は選ぶべきであった、と少しばかりの後悔を抱え目線を落とした 難しい

悪い方に変わったイメージはどうしても覆せない 嫌いなヤツのことをやっぱり好きと言うことも出来ない

むず痒い空気をなんとか潜り抜けて冷静に考えると、わたしは自分の汚い部分をこいつに見せていなかったんだとおもった

こう思った、こう感じた、全部を共有するわけにもいかず、日常の中のほんのちょっとの接点だけじゃ、相手をこれっぽっちも理解できない

わたしの中身を全部知ったら、みんなわたしを「いいヤツ」だなんて言わなくなるのかな
二者択一を迫られたら、そりゃ「いいヤツ」のほうが良いだろう、と思うから、わたしの根暗な部分をどうにか払拭しなくては

「いいヤツ」っていうのは損な役回りが多い
周りがどんどん遠くに行ってしまう中、仲の良い友人ばかりが増えていくこの体たらく

去年T中と話をしたのを思い出す
「そろそろいいヤツの時代が来てもいいと思うんだ」

確かにそうだな わたしもそう思う